プロレタリアート独裁は死んだのか
2015年10月14日
『夢をかさねて』という曲を聴いている。
もう10年以上も昔、エーベックスが鳴り物入りでデビューさせた韓国の女性ユニットS.E.Sが1999年2月に発表したものだ。その歌は2年後の2001年にS.E.Sのアルバム4.5集『Surprise』に「꿈을 모아서 (Just In Love)」として収められた。
パダ、ユジン、シューの歌声を耳にしながら、漫然と「人の求める夢」に思いを巡らしていたら、プロレタリアート独裁のスローガンとその生活実態に想像力が動き出した。
マルクスの導き出した経済形態の一つである共産主義経済は、ソビエト連邦の崩壊を経て中華人民共和国のもとで自由経済と共存を続けている。これはあくまで私的な感想なのだが「プロレタリアート独裁という共産社会」は相当につまらないに違いない。というのは、健全な大人であろう者に小中学生の授業でもあるまいに「決まった時間に規則正しく出退勤を繰り返し」を強いるような社会が個人にとって面白いはずもなかろう。仕事というものは、おのれの自由と裁量で苦難に挑んでこそ、その結果に喜怒哀楽が生じて意味のあるものと感じられるのではなかろうか。いわゆる町工場の事業主とそれを支える協同労働者たる部下たちの関係は、単なる資本とプロレタリアートでなく常に生活共同体としての意思疎通の強い絆によって形成されているように思われる。
それが一人の事業主に対して4~5人までの部下なら関係性が維持できるのか、それとも事業者のパワーによっては10人とか、あるいは30人くらいまでは可能なのかは分からない。
いずれにしろ、ソ連におけるプロレタリアート独裁体制という名の経済形態社会の中の労働者は、相当につまらない毎日を送っていたのだろうと想像する。そうでなければ70年そこそこで国家が滅びるなんてのはほぼありえない。ひどいもんだ。人は単に「パンを手に入れるだけ」の労働から精神的喜びを享受できる労働へと自然に移行していくようだ。
だとするならば、国家官僚主導型の日本式自由経済も個人がもっと自由と裁量を発揮できる経済形態に移行していくべきなのだろうと思う。つまり少人数の企業単位がそれぞれ好き勝手に商売をはじめても何らの支障をきたすことがないような経済形態が創造しうるものと考える。
もう10年以上も昔、エーベックスが鳴り物入りでデビューさせた韓国の女性ユニットS.E.Sが1999年2月に発表したものだ。その歌は2年後の2001年にS.E.Sのアルバム4.5集『Surprise』に「꿈을 모아서 (Just In Love)」として収められた。
パダ、ユジン、シューの歌声を耳にしながら、漫然と「人の求める夢」に思いを巡らしていたら、プロレタリアート独裁のスローガンとその生活実態に想像力が動き出した。
マルクスの導き出した経済形態の一つである共産主義経済は、ソビエト連邦の崩壊を経て中華人民共和国のもとで自由経済と共存を続けている。これはあくまで私的な感想なのだが「プロレタリアート独裁という共産社会」は相当につまらないに違いない。というのは、健全な大人であろう者に小中学生の授業でもあるまいに「決まった時間に規則正しく出退勤を繰り返し」を強いるような社会が個人にとって面白いはずもなかろう。仕事というものは、おのれの自由と裁量で苦難に挑んでこそ、その結果に喜怒哀楽が生じて意味のあるものと感じられるのではなかろうか。いわゆる町工場の事業主とそれを支える協同労働者たる部下たちの関係は、単なる資本とプロレタリアートでなく常に生活共同体としての意思疎通の強い絆によって形成されているように思われる。
それが一人の事業主に対して4~5人までの部下なら関係性が維持できるのか、それとも事業者のパワーによっては10人とか、あるいは30人くらいまでは可能なのかは分からない。
いずれにしろ、ソ連におけるプロレタリアート独裁体制という名の経済形態社会の中の労働者は、相当につまらない毎日を送っていたのだろうと想像する。そうでなければ70年そこそこで国家が滅びるなんてのはほぼありえない。ひどいもんだ。人は単に「パンを手に入れるだけ」の労働から精神的喜びを享受できる労働へと自然に移行していくようだ。
だとするならば、国家官僚主導型の日本式自由経済も個人がもっと自由と裁量を発揮できる経済形態に移行していくべきなのだろうと思う。つまり少人数の企業単位がそれぞれ好き勝手に商売をはじめても何らの支障をきたすことがないような経済形態が創造しうるものと考える。
Posted by きょん at 20:21│Comments(0)
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