時に拘わる
2014年12月31日
巷では大晦日ということで忙しなさげに人々は落ち着かない。
はたして日本人にとって今日である西暦の12月31日はどれほど重要な日なのか。
もともと大晦日の由来は、太陰太陽暦における1年の最後の日という意味で名付けられたのだから、それを西洋のグレゴリオ暦にそのまま横滑りさせてしまうだけでは無理があるというのもだ。日本の旧暦では、毎月の最後の日を「晦日(みそか)」つまり「三十日」と称していた。だから、1年の最後の晦日(三十日)が「大晦日」(大三十日)なのであって、単に「年末日」とか「今年最後の日」を表す言葉として大晦日は適当ではない。
これは実にくだらないディスりにすぎないわけだが、それでも暦法上において正しくないものは正しくない。
さて置き、慶応四年(1868年)九月八日に明治天皇は即位して改元して明治となった。まだこの時は旧暦のままで、新暦を採用したのは明治五年十二月三日で、この日がグレゴリオ暦の1873年1月1日に当たるため、この日を以て明治六年1月1日と定めた。だから明治五年は十二月二日が最後の日で、これを当時に大晦日と呼んだかどうかは知る由もない。
では、日本人が今日のように当たり前のように西暦の1月1日を祝うようになったのはいつ頃からだろうか。
権力者が「時を支配」する事例として日本において最初に登場するのは天智天皇ではなかろうか。大化の改新の中大兄皇子としてのほうがよく知られているこの天皇は、中臣鎌足(藤原氏始祖)とともに蘇我一族を滅ぼすことによって政権をその手中に収めた。そして奈良の飛鳥から近江の大津へ遷都した668年に天皇に即位したと伝えられている。このあと古事記や日本書紀が書き上げられるのは約40年後になり、672年に崩御された天智天皇は在位中に正史は残していない。また兄・天智を継いだ大海人皇子こと天武天皇は帝紀の編纂を命じたことがのちの正史に見られるが、天武は686年に崩御されているので、息子の文武天皇の時代まで待たなければならない。したがって事実としては伝承の域を出ないわけだが、その『日本書紀』天智天皇十年四月の条には天智天皇が「漏刻」という水時計を作ったと記述がある。これが日本最初の時計とされる所以でもある。毎年6月10日は「時の記念日」とされて、近江神宮では「漏刻祭」が行われるという。祭神は天智天皇。

はたして日本人にとって今日である西暦の12月31日はどれほど重要な日なのか。
もともと大晦日の由来は、太陰太陽暦における1年の最後の日という意味で名付けられたのだから、それを西洋のグレゴリオ暦にそのまま横滑りさせてしまうだけでは無理があるというのもだ。日本の旧暦では、毎月の最後の日を「晦日(みそか)」つまり「三十日」と称していた。だから、1年の最後の晦日(三十日)が「大晦日」(大三十日)なのであって、単に「年末日」とか「今年最後の日」を表す言葉として大晦日は適当ではない。
これは実にくだらないディスりにすぎないわけだが、それでも暦法上において正しくないものは正しくない。
さて置き、慶応四年(1868年)九月八日に明治天皇は即位して改元して明治となった。まだこの時は旧暦のままで、新暦を採用したのは明治五年十二月三日で、この日がグレゴリオ暦の1873年1月1日に当たるため、この日を以て明治六年1月1日と定めた。だから明治五年は十二月二日が最後の日で、これを当時に大晦日と呼んだかどうかは知る由もない。
では、日本人が今日のように当たり前のように西暦の1月1日を祝うようになったのはいつ頃からだろうか。
権力者が「時を支配」する事例として日本において最初に登場するのは天智天皇ではなかろうか。大化の改新の中大兄皇子としてのほうがよく知られているこの天皇は、中臣鎌足(藤原氏始祖)とともに蘇我一族を滅ぼすことによって政権をその手中に収めた。そして奈良の飛鳥から近江の大津へ遷都した668年に天皇に即位したと伝えられている。このあと古事記や日本書紀が書き上げられるのは約40年後になり、672年に崩御された天智天皇は在位中に正史は残していない。また兄・天智を継いだ大海人皇子こと天武天皇は帝紀の編纂を命じたことがのちの正史に見られるが、天武は686年に崩御されているので、息子の文武天皇の時代まで待たなければならない。したがって事実としては伝承の域を出ないわけだが、その『日本書紀』天智天皇十年四月の条には天智天皇が「漏刻」という水時計を作ったと記述がある。これが日本最初の時計とされる所以でもある。毎年6月10日は「時の記念日」とされて、近江神宮では「漏刻祭」が行われるという。祭神は天智天皇。

Posted by きょん at 17:13│Comments(0)
│■世間のこと